まずはこちらの動画をご覧ください!!
『千ノナイフガ胸ヲ刺ス』・・・出荷数500万枚を突破したGLAYのベストアルバム『REVIEW-BEST OF GLAY』にも収録されている、インディーズ時代からの名曲です。
動画の冒頭から異彩を放つ、AKIRAのドラムテクニックにご注目ください。
インディーズ時代のGLAYは、正式ドラマーを含めた5人編成でした。
動画は1993年収録のパフォーマンス。
AKIRAは1992年からメジャーデビュー直前までの約2年間、黎明期のGLAYサウンドを支え、バンドを盛り上げました。
GLAYのインディーズ時代に生まれた曲は、ブレイク後25年以上経った現在でも、ライヴを盛り上げる名曲として、親しまれています。
GLAYのサウンドは、年月とともにしなやかさを増し、熟成しているのです。
インディーズ時代のGLAYが一番格好いい!?
今回の記事は「インディーズ時代のGLAYが繰り出す、硬さの残ったパフォーマンスが一番格好いい!!」と感じているファンのために書きました。
インディーズ時代のGLAYの魅力に迫り、国民的ロックグループの礎となった歴史をご紹介します!!
「優しさロック」という難題に挑み続けるGLAY
『無限のdeja vu』でオーディション番組に挑戦
GLAYの歴史を語るうえで、欠かせないエピソードがあります。1990年11月に出演した、オーディション番組『三宅裕司のいかすバンド天国』(以下『イカ天』)での経験です。
当時のGLAYにとって『無限のdeja vu』は「優しさロック」に最もふさわしい曲。ギター1本とヴォーカルのみのイントロを長めにとるなど、GLAYは凝ったアレンジで審査員とお茶の間に、存在をアピールしています。
しかし審査員を務めた斎藤ノヴ氏からの評価は、「メンバーの見た目は派手なのだから、もっと演奏に毒が欲しかった」と、厳しいものでした。
田中一郎氏からも「最初ギター一本だけで始まる曲なのに、後からバンド全体の音が鳴っても差を感じない」「ずっとAメロを聴いている感じ」と、インパクト不足を指摘されています。
GLAYと共に上京してきた戦友、DILDOも苦戦
『イカ天』に出演していたベーシストのSHINGOは、函館時代にGLAYと共に活躍していたバンド、『DILDO』のメンバーとして活動。
SHINGOは函館で実力派のベーシストとして知られ、DILDOと掛け持ちしながら、上京直後のGLAYを2年半にわたり支えます。
今回は貴重な、DILDOの音源を聴かせて頂くことができました。
DILDOのサウンドは「優しさロック」のGLAYとは対照的に、とにかくハード。1980年代に起こったジャパニーズ・へヴィメタル・ムーヴメント(以下、ジャパメタ)の影響を強く感じます。
しかし1990年前後はジャパメタ界にとって、かなり苦しい時期。
ニュー・ウェーヴ系サウンドのバンドが評価される時代で、DILDOのようなサウンドは「今更かよ!」と言われかねない、厳しいスタイルだったのではないでしょうか。
DILDOは東京で数えるほどのライヴをこなし、上京後約1年で解散します。
DILDO解散に伴い、SHINGOはGLAYでのバンド活動に専念しました。
正式ドラマーが決まらなかった、GLAYの暗黒時代
AKIRA加入直前の、1992年5月のライヴ動画を見てみましょう。
GLAYが『イカ天』に出演した1990年11月から1年半以上経ち、GLAYメンバーの服装もモノトーンカラーを基調にした、ヴィジュアル系へとシフトしています。
当時のドラマーは高校生のISO。
1991年はGLAYのドラマー不在問題が深刻で、ベースのSHINGOがドラムを担当、HISAHIがベースを担当する・・・といった時期がありました。
ISOは1992年2月から5月までGLAYに在籍。
当時の動画を見ていると、堂々とし切れていないTERUの様子が少し、気の毒に感じます。
時代に合わせヴィジュアル系を意識した衣装に身を包んでも、ダークさに欠ける音楽性を「中途半端」と評価されたり、ライヴでは観客の反応が薄かったりと、GLAY「暗黒時代」のうわさは、大げさではないのかもしれません。
ISOのドラムの腕前は過小評価?
ISOは1992年5月、AKIRAの加入に伴いGLAYを解雇されてしまいます。
AKIRAの著書『Beat of GLAY』によるとTAKUROがISOにきっぱりと、「君の演奏ではGLAYの音楽を表現できない」と言い渡したのだそうです。
「高校生だから・・・」「GLAYに加入したいと言ってくれたドラマーがいるから・・・」と言って辞めさせがちなところ、TAKUROはISOに「実力不足」を言い渡しました。TAKUROの覚悟を感じさせるエピソードのひとつです。
改めてISO在籍時のライヴ動画を視聴し、ドラムテクニックに注目しました。
動画を視聴した限りでは、下手には聴こえません。特にこれといったミスも無いようでしたし、ドラマーとしての役割は果たしていたと思います。
しかしGLAYは、後に国民的ロックグループへと成長するバンド。
「高校生にしては上手い」「アマチュアとしては上手い方」といったレベルから抜けきれないドラマーは、インディーズでも通用しなかったのでしょう。
AKIRAの加入により、演奏力が強化
上京直後のGLAYを支えた、SHINGOの演奏力
AKIRAは東京都八王子市出身で、当時のGLAYメンバーとは1つ年下です。
1992年5月、AKIRAは歩行者天国で見たGLAYのパフォーマンスに注目し、翌週のライヴでメンバーと知り合い、ISOと入れ替わりで加入しました。
AKIRAはGLAY加入後、スタジオ練習の回数を増やそうと提案し、演奏力の強化に努めます。
1992年7月に発売されたAKIRA加入後初のデモテープ『DANCE VISION』は高評価を得て、GLAYの知名度はインディーズ界の中でも上がっていきました。
SHINGOとJIRO
『DANCE VISION』で聴かれるSHINGOのベースプレイ、現ベーシストJIROとの違いは『TWO BELL SILENCE』で確認できます。
SHINGOが派手めなベースプレイでGLAYのサウンドを引っ張っているのに対し、JIROのプレイは堅実です。
JIROは派手なプレイを売りにしているベーシストではありませんが、GLAYのヴィジュアル面やプロモーションの強化に大きく貢献しています。
SHINGOの脱退とJIROの加入
しかしAKIRA加入後、スタジオ練習の回数が増えたころから、SHINGOのバンド活動に対するモチベーションが、低下してしまいます。
SHINGOはGLAYでの活動よりも、恋人との生活を大切に考えました。
心配をしたTERUとAKIRAはSHINGOの住むアパートまで行き、話し合いをします。
SHINGOは「バンドを続けても、成功するかどうかわからない。このままでは、彼女を幸せにすることができない」と伝え、GLAYの脱退を決意しました。
ライヴに穴を空けなかったGLAY
函館時代からの友人だった、SHINGOがGLAYに在籍していた期間は1990年4月から1992年9月までの、約2年半。
SHINGOの脱退が決定したあともライヴの予定は組まれ、SHINGOが最後のライヴ出演を終えた後にJIROが加入する流れは、スムーズでした。
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JIROは函館時代、GLAYの後輩バンドである『ピエロ』のメンバーとして活躍。
『ピエロ』はGLAYの後を追う形で上京しましたが、解散。TAKUROは『ピエロ』解散直後のJIROに声をかけ、SHINGOの後任に決めていました。
1993年、本格プロとしての活動が始まる
エクスタシー・レコーズがGLAYに注目
JIROが加入してからのGLAYは、メンバー全員が高いモチベーションを維持しながら、デモテープ制作やイベント企画をこなし、着実に力をつけていきました。
ついに1993年8月、YOSHIKI設立の大手インディーズレーベル『エクスタシー・レコーズ』がGLAYに注目し始めます。
GLAYの音楽はYOSHIKIに「僕がプロデュースしてみたくなるバンド」と思わせるほどの評価を得ました。
エクスタシー・レコーズの凄さ
エクスタシー・レコーズの凄いところは「エクスタシー所属のバンドは何としてでも売る」といった熱い姿勢で、契約したバンドには惜しみなく、広告費だけで数千万円も投資します。
エクスタシー・レコーズと契約したGLAYはいよいよ、本格的なプロミュージシャンとしての活動を開始しました。
メンバーにはエクスタシー・レコーズから月給が支払われ、スタジオ代からステージ衣装も全て、エクスタシー・レコーズが用意。
過酷なアルバイト生活に耐えながら、バンド活動を続けてきたGLAY。
環境の急激な変化に戸惑いながらも、ようやく音楽に専念できる、プロミュージシャン生活を手に入れました。
メジャー・デビュー直前、AKIRA脱退
『灰とダイヤモンド』レコーディングの厳しさ
エクスタシー・レコーズと契約したGLAYは、音楽活動に集中できる環境を手に入れましたが、決して楽になったわけではありません。
広告に力を入れる姿勢のエクスタシー・レコーズは、雑誌広告や取材の仕事をガンガン取ってきました。
GLAYのスケジュールは2~3日前に決まることが多く、GLAYメンバーのみで集まるといった機会も減っていきます。
AKIRAはエクスタシー・レコーズでの窮屈なプロ生活になじめず、違和感を持つようになりました。
一方、エクスタシー・レコーズは何としてもGLAYを売り出したい。
『灰とダイヤモンド』のレコーディングは、厳しさを増しました。
TERU以外の4人が脇役に徹した『灰とダイヤモンド』
ジャケットを見れば一目瞭然ですが、『灰とダイヤモンド』はヴィジュアル面からサウンド面まで、ヴォーカルのTERUを際立たせたアルバムです。
レコーディングでも、ヴォーカルを埋もれがちにさせるサウンドには、何度もNGが出されました。
GLAYはTERUとTAKUROの二人だけでいい?
1994年1月、『灰とダイヤモンド』のリリースとメジャーデビュー曲『RAIN』のレコーディングが決まります。
『RAIN』のレコーディングはロサンゼルスで行われることになり、メンバー全員のテンションもアップしました。
しかしエクスタシー・レコーズはメンバー全員を集めたミーティングでHISASHI、JIRO、AKIRAに厳しい言葉をかけます。
「やる気がなくなったら参加しなくていい。うちはTERUのヴォーカルとTAKUROの曲さえあれば、GLAYとして売り出すことができる」
1994年2月、エクスタシー・レコーズはAKIRAをロサンゼルスに連れて行かないと判断。
勝気な性格のAKIRAはGLAYにしがみつくことなく、脱退を決意します。『RAIN』のドラムは、海外のセッションドラマーが担当しました。
AKIRAが参加した唯一のメジャー作品
1994年2月にAKIRAはGLAYを脱退しますが、メジャーデビューシングル『RAIN』の前にレコーディングされたセカンドシングル『真夏の扉』では、AKIRAのプレイを聴くことができます。
『真夏の扉』がリリースされたのは1994年6月なのでPVにAKIRAは映っていませんが、AKIRAのプロキャリアはGLAYのメジャー音源にも残されていました。
メジャーデビュー直後のGLAY
NOBUMASAはライヴとヴィジュアルでのみ参加
メジャーデビューしたGLAYは、AKIRAと友人関係にあるドラマー、NOBUMASAにサポートを頼みます。
GLAY初の全国ツアーに同行したNOBUMASAはメジャーデビューアルバム『SPEED POP』のレコーディングには参加できませんでしたが、正式ドラマーとして迎えられました。
しかし事務所の意向によりNOBUMASAは1995年、『SPEED POP』発売直後に解雇。
GLAYは「5人編成でこそGLAY」というこだわりを捨て、一流セッションドラマーの永井利光氏を迎えます。
AKIRAはKill=slaydに参加
AKIRAはGLAY脱退後、GLAYと親交の深かったKill=slayd(以下、キルスレイド)に加入。ミニアルバム『-Peripheral-』のレコーディングに参加しました。
AKIRAがキルスレイドの活動した期間は約半年と短く、キルスレイド脱退後はいくつかのローカルなバンドで活動しながらも、一般人としての暮らしを選びました。
AKIRAのブログ
AKIRAは2010年8月にGREEで公式ブログを開設し、インディーズ時代からデビュー直後の貴重な情報を掲載してくれています。
学生時代からの友人だったNOBUMASAとも交流があり、NOBUMASAがGLAYのライヴで使用していたドラムセットの画像も掲載されていました。これは貴重ですよ!
我々「5人編成時代のGLAY」ファンとしては、とてもありがたいですよね!
おわりに
今回、参考にさせて頂いた書籍
今回の記事でははAKIRAが1999年2月に上島明として発表した、『Beat of GLAY』を主な参考書籍とさせて頂きました。
その他webの情報を頼りに私見を交えた文章にしてしまったため、この記事を最後まで読んでくださったあなたにとって、スッキリしない記事になってしまったかもしれません。
少しでも良い記事にしていきたいと思いますので、指摘事項がありましたら、当ブログの「お問い合わせ」から、メッセージを頂ければと思っています。